所報8月号
24/28

表紙絵を訪ねて~松山の八十八ヶ所霊場めぐり~第8回 「鷹子町 第49番札所 浄土寺」【「所報」7月号表紙】「霜月の空也は骨に生きにける」 古の時代と現代をつなぐ場所 四国八十八ヶ所のうち、松山には八つの霊場が存在します。ここでは、表紙を彩る香川進先生の絵の舞台となっている、松山の八十八ヶ所霊場と遍路道という風景に秘められた物語をご紹介しています。▲正岡子規の句碑▲久米官衙遺跡群 来住廃寺跡 8回目となる本コラム、今月は鷹子町にある第49番札所、浄土寺をご紹介します。西林寺までの田園風景が広がる景色から一転、住宅街を抜け、ビルやマンションが建ち並ぶ一角に寺院があります。 浄土寺は、天平年間(729〜749)に創建されました。その後、天徳4(960)年、市の聖として慕われた「空也」が三年間、滞在したと伝えられています。空也が寺を去る時に、村人からの願いで自らの姿を刻んだといわれるのが、今も遺される「空也上人立像」です。口から六字名号(南無阿弥陀仏)が仏となって出ている、京都六波羅密寺の空也上人像と同じものであり、国の重要文化財となっています。 鎌倉時代には、源頼朝が伊予の豪族、河野通信とともに、家門の繁栄を祈って堂塔の修理に力を与えたと言われています。その河野通信は、時宗の開祖であり、松山に生を受けた「一遍」の祖父にあたります。一遍は念仏踊りをはじめた空也の影響を受けているとされ、歴史の糸が絡んでいるのかもしれません。また、正岡子規も標題の通り、空也を句に詠みました。その句碑は寺院内に建立されています。 そもそも、浄土寺がある久米地区は、古の時代より、伊予の国の中心とされてきました。現在、久米官衙遺跡群として、古代の官衙関連遺跡と古代寺院跡が歴史を今に伝えています。全国的にも当時を知ることができる、重要な遺構となっており、調査・研究が進められています。 住宅街とビルの谷間に残る史実と遺構、そして、お遍路文化。現代にありながら、古の時代を覗くことができる、貴重な場所となっています。コラム22

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です