所報10月号
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表紙絵を訪ねて表紙絵を訪ねて~松山の八十八ヶ所霊場めぐり~ 四国八十八ヶ所のうち、松山には八つの霊場が存在します。ここでは、表紙を彩る香川進先生の絵の舞台となっている、松山の八十八ヶ所霊場と遍路道という風景に秘められた物語をご紹介しています。第10回 「石手 第51番札所 石手寺」四国遍路と道後温泉で現在へつながる「おもてなしの心」【「所報」9月号表紙】 今回のコラムは、第51番札所石手寺です。観光地の道後地区にある石手寺は、今までの札所から周辺の雰囲気が一変します。また、国宝である仁王門、重要文化財の三重塔など、文化財が数多くあるため、お遍路さんだけではなく、日々、多くの観光客で賑わっています。 石手寺は728年、聖武天皇の勅願によって創建されます。当初は「安養寺」と呼ばれていましたが、後に現在の「石手寺」にあらためられます。これは、以前にも本コラムでご紹介した衛門三郎伝説が深く関係しています。衛門三郎は、托鉢で訪れた弘法大師の鉄鉢を叩き落としたことから、その8人の子を次々と亡くします。その後、弘法大師に許しを乞うため四国内を巡拝、死の間際に弘法大師と出会い、罪を許されます。この巡拝が四国遍路のルーツといわれています。月日が経ち、伊予の豪族である河野氏の子供が、「衛門三郎」と書かれた石を手に握って出生したそうです。その石は当寺院に納められ、今も残っているとか。その由来から、寺の名前が「石手寺」になりました。由来の通り、河野氏と石手寺は深い関係があったようです。永禄5年(1562年)の制札によると、道後温泉を管理していた河野氏が、石手寺の僧侶のために、月6日ほど入浴日を規定して、便宜を供したとされています。 また、道後地区の歴史を紐解けば、四国遍路が盛んに行われた江戸時代、書物には、お遍路さんは道後で自由に一宿しても良いとされた記述があります。また、「四国遍路や通り掛りの者は三日間止宿湯治を許すこと」という、三日まで湯銭を払わなくて良いとする定書も残されています。こうしたお遍路さんに対する慣行は、明治時代の半ばまで続いていました。 四国遍路のおもてなしの心は、日本最古という道後温泉の歴史に刻まれ、今の時代へ思いとともに伝えられているようです。コラム24
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