所報11月号
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坂本 光司/さかもと・こうじ1947年東京生まれ。福井県立大学教授、静岡文化芸術大学教授などを経て、2008年4月より法政大学大学院政策創造研究科(地域づくり大学院)教授、同静岡サテライトキャンパス長および同イノベーション・マネジメント研究科兼担教授。他に、国や県、市町、商工会議所などの審議会・委員会の委員を多数兼務している。専門は中小企業経営論・地域経済論・産業論。著書に『日本でいちばん大切にしたい会社』(あさ出版)、『この会社はなぜ快進撃が続くのか』(かんき出版)など。法政大学大学院政策創造研究科 教授 坂本光司快進撃企業に学べ 創業者の田村英也さんは、終戦を中国大陸で知った元日本兵の一人であり、戦後は引揚げ者として故郷に帰還している。何日も何日も待って、ようやく乗車することができた貨物列車のような汽車の中での出来事が、田村さんをお菓子屋さんになることを決意させた。 それは、まるでサウナのような満席の汽車の中での出来事だった。ご主人は生き別れになったのか、戦死されたのかは分からないが、小さな子どもを抱きかかえた一人のお母さんが座っていた。その子どもは空腹のためか、あまりの劣悪な環境の汽車のためなのか、お母さんがどんなにあやしても、なかなか泣き止まなかった。 乗り合わせた大人たちも、不眠不休で命からがら中国から引き揚げてきたこともあり、次第にイライラが増幅していき、「怒声を発する人がいなければいいが……」と、田村さんは心配した。すると田村さんの隣に立っていた、ぼろぼろの軍服を着て、顔中傷だらけの痩せ衰えた一人の男性が、ポケットの中から最後の一切れと思しき紙に包まれたチョコレートを出し「お母さん……これっぽっちしかないけれど、お子さんに食べさせてあげてください……」と手渡した。そのお母さんは深々とお礼をし、その一片を子どもに食べさせると、泣き声が止んだばかりか、「ニコッ」と笑った。田村さんは、そ 北海道の十勝平野およびその中心都市である帯広市は、自然に恵まれ、お菓子をつくるための原料が豊富なため、著名な菓子メーカーが多い。その代表格はなんといっても「六花亭製菓」や「柳月」である。両社とも、今やわが国を代表する菓子メーカーとして成長発展している。今回は、先般、筆者が大学院生たちと久方ぶりに訪問した「柳月」について紹介する。 同社の創業は1947(昭和22)年である。現社長である田村昇さんの父親が、良いお菓子屋をつくるため、あえて厳寒のこの地に来て創業している。お菓子には縁もゆかりもなかった創業者がなぜ、この地であえてお菓子屋さんを開店したのか、そのきっかけが、同社の創業の心であり、今日もいちばん大切にしている経営の原点である。このことを知れば、読者の多くは、なぜ同社がぶれることなく長期にわたり、快進撃を持続しているのかが容易に理解できるであろう。の光景を見てお菓子の魔力にとりつかれたと、生前、私に話してくれた。 このことがあり、創業者はお菓子屋になることを決意し、しかもお土産菓子ではなく「おやつ菓子」「家族団らんの足しになる菓子づくり」をスタートさせたのである。 同社がなぜ価格にこだわり、お母さんのために、おいしいお菓子づくりをしているかの理由がここにあるのだ。家族団らんの足しに菓子をつくる『柳月』vol.18コラムコラム16
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