所報6月号
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米山の書に触れているようです。 奇しくも、平成26年5月2日から6月1日の間、第1回目のコラムで紹介した椿神社において、「三輪田米山特別展」が開催されていました。市内だけではなく、県外からも多くの方が訪れたようです。展示を見ると、あらためて米山の書が身近なところから、私たちに語りかけていることがわかりました。今後も色褪せることなく、次代へ、書に込められた想いとともに受け継がれていくのでしょう。  代々、日尾八幡神社の神官を担うのは三輪田家です。江戸及び明治時代に活躍した書家である三輪田米山も、日尾八幡神社の神官でした。米山は1821年、三輪田家の長男として生まれ、28歳で神職を継ぎますが、書家としても活躍します。特定の師につかず、王羲之の書を範として独学で学び、現代書の先駆者と呼ばれるほど、新しい書の境地を開きました。米山の筆による神名石は松山市の多くの神社にあり、私たちは日頃から、不思議な力に溢れる、松山市内にある神社の名を刻んだ日尾八幡神社の神官表紙絵を訪ねて~神代の昔をめぐる~第4回「南久米町 日尾八幡神社」 愛媛・松山は日本最古の温泉を有し、古事記にも伊予の名を見ることができる歴史ある地です。それを伝える神社をめぐり、あらためて伝説を紐解くことで、神代の昔と今をつなぎます。▲境内にある米山碑 表紙絵になっている神社を訪ね、その歴史を紐解く本コラム。第4回目は、南久米の旧国道沿いに鎮座する、日尾八幡神社です。 千二百年以上前となる天平勝宝4年、宇佐より勧請し、久米八幡宮と号して奉られました。古の時代、伊予の国の中心とされた久米地区一円の氏宮として、また前回コラムでも紹介した松山藩の初代藩主、加藤嘉明が松山城の守護神として選んだ、八社八幡の一つとして広く知られています。お遍路道沿いにあることから、白装束を身にまとった参拝客も多く訪れます。▲三輪田米山特別展コラム22

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