所報5月号
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四国遍路のルーツ 衛門三郎伝説と  歴史が交わる史跡 荏原と呼ばれたこの地の庄屋であった衛門三郎は、托鉢に訪れた旅の僧を弘法大師と知らず、手にしていた鉄鉢を、竹ぼうきで叩き落としてしまいます。鉄鉢は8つに割れ、翌日から8日の間に衛門三郎の8人の子供は次々と亡くなってしまいました。衛門三郎は、その行いを悔い、弘法大師に許しを乞うため、その後を追います。四国内を21回ほど巡拝し、死の間際に弘法せんが、横穴式石室と推察され、時代は古墳時代終末と考えられています。八ツ塚は、先述した古墳群に対して性格的に異なると考えられ、平野部の群集墳としても特殊なものになっています。衞門三郎の伝説から、塚の頂に小祠が置かれ、石地蔵が祀られています。その伝説がいつから語り継がれているのかは、定かではありません。 四国遍路は、本年、日本遺産に登録されることとなりました。古代の歴史と伝説が交わる、まさしく遺産と呼べる史跡です。大師と出会います。そして、罪を許され、伊予城主の嫡男として生まれ変わったそうです。この巡拝が、四国遍路のルーツとなっています。近くには、その8人の子供を祀ったとされる古墳があります…平成25年、松山にある八カ寺を紹介した当コラムに掲載した八ツ塚群集古墳(市指定記念物(史跡))です。 松山平野の南丘陵部には、土壇原・西野・大下田南・釈迦面・松が谷等の古墳群があり、八ツ塚はそれらに続く8基の群集古墳です。墳丘は、開発によって変形していますが、直径約7mから14mの円墳と、一辺10mをやや超える方墳が半数ずつあります。墳丘高は、1・5mから3・5mの規模となっています。石室は未調査のため明確ではありま古代からの手紙第5回「恵原町 八ツ塚群集古墳」くたに幼稚園屋上より(H25.5 撮影)コラム22

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