所報7月号
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古から現代まで 人・モノ・情報が 行き交う拠点 表紙絵の遺跡を紹介する本コラム、今回は、愛媛大学城北キャンパスを中心に展開する文京遺跡です。道後温泉周辺から、松山城の北側は、縄文〜古墳時代の遺跡が数多く発見されていることから、道後城北遺跡群と呼ばれています。中でも、約2000年前の弥生時代中期〜後期にかけて多くの人々が生活する大規模な集落を形成していたとされるのが、文京遺跡です。 文京遺跡の周辺では平形銅剣と呼ばれる弥生時代の青銅で作られた祭器が集中して出土しており、古くから松山平野の中心的な遺跡だと考えられていました。本格的な調査が実施されたのは1975年からで、以降、60次以上の調査が実施されています。発掘調査の結果から、弥生時らには朝鮮半島からの土器、また中国舶来の青銅鏡の破片などが出土しており、交流・交易の拠点として展開したことがうかがえます。 時代が変わり、「弥生都市」は愛媛大学になりました。文京遺跡での出土品の一部は愛媛大学ミュージアムで常時展示されています。中四国をはじめ海外からも人材が集まり、情報を発信する愛媛大学。この地が人・モノ・情報が行き交う拠点であることに、古から今も変わりはありません。代、現在の城北キャンパス付近は浅い谷状の低地が網目状にのび、その間の微高地に大規模な遺跡が営まれていることが分かりました。幾重にも重なり合った状態で発見された100棟を超える竪穴住居跡、祭事などに使われ、シンボリックな建物であったと思われる超大型掘立柱建物、数棟が集まって建てられている高床式倉庫などから、全国的にも貴重な「弥生都市」とも呼べる大規模集落であったと考えられています。同時代の有名な吉野ケ里遺跡と比較しても、はるかに密集して住居が立ち並んでいたとされています。 また、この文京遺跡からは集落内で作られた土器類が大量に出土しています。一方では、瀬戸内海沿岸各地をはじめ、東南部九州、さ古代からの手紙第7回「愛媛大学 文京遺跡」コラム22
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