所報9月号
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同遺跡から出土した法隆寺式軒丸瓦古代から現代まで 人の行き交う  久米の古代史跡  表紙絵の遺跡を紹介する本コラム、今回は、松山市東部、堀越川と小野川に囲まれた来住台地に立地する、来住廃寺(久米官衙遺跡群)です。来住廃寺の発掘調査は昭和42年に始まり、昭和54年には松山最古となる飛鳥時代の寺院跡として国指定史跡となりました。現在は、樹木が生い茂る小高い丘となっていますが、創建当時と変わらぬ位置に7石の礎石(建物の柱を据える石)が残されています。この礎石からは、来住廃寺の金堂(本堂)がその地に建てられていたことが分かりました。 来住廃寺からは仏教関連の遺物が出土しており、中でも、創建時に使用された「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」は、奈良の法隆寺に葺かれている瓦文様(法隆寺式軒た斉明天皇が白村江の戦いに向かう際の行宮ではないかと考えられており、久米の地が当時の松山平野の中心であったことがうかがえます。さらに、この地一帯は碁盤の目状に「地割」が行われていたことも分かりました。 現在、久米官衙遺跡群の保存地区は住宅街の中に点在しており、古の歴史は日常の喧騒に掻き消されています。一方、「地割」の影響から、この地を通る道路の一部は、千年以上位置が変わらないものもあります。今も昔も人が歩む「道」は変わらないことを物語っているようです。丸瓦)と似た文様の瓦が使用されていることから、中央とのつながりがうかがえるものです。 また、昭和62年の調査では、台地の北で「政庁」(現在の県庁にあたる施設)の跡が発掘されました。建物跡は来住廃寺建立以前の7世紀前半の建設と推測され、全国で最も古い「政庁」跡とされています。この他、米などの「租税」を保管するための倉庫群や「回廊状遺構」と呼ばれる約百メートル四方の大規模な施設も発見されています。中でも、回廊状遺構は時の天皇であっ古代からの手紙第9回「来住廃寺(久米官衙遺跡群)」あんぐうコラム22

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