言のののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力ことばのちから人生いろいろあるけど、生きてることを喜ぶ。生きてることに感謝する。生きる。 最近このコラムでは、徳川家康に仕えた武将を取り上げている。来年の大河ドラマの主人公が家康なので、そこにヒントを得たのだ。今回は番外編。前回に取り上げた奧平信昌のひ孫を取り上げる。いろいろと困った人物なので、ぜひ紹介したい。 その人物とは奧平昌能(1633〜1672)。信昌の嫡孫で宇都宮11万石を領する忠昌の嫡男として誕生した。寛文8(1668)年に忠昌が死去し、彼は家督を継いで藩主となった。 事件は忠昌が没して14日後に起きた。奧平家の菩提寺である興禅寺において忠昌の法要が営まれていたが、その場でささいなことから口論となり、重臣の奥平内蔵允が抜刀して同じく重臣の奧平隼人に斬りつけたのである。隼人は応戦して、内蔵允に手傷を負わせた。帰宅した内蔵允はその晩、自刃した。 家臣たちはこの上なく厳粛な場で抜刀して斬り合ったことから、けんか両成敗の慣習に従って、隼人も切腹させるべきだと主張した。ところが昌能は隼人に肩入れして、彼を藩から追放するにとどめた。この裁定は家臣たちの反感を買い、主君を見限り浪人する者が多く出たという。隼人と同じく追放に処せられた内蔵允の遺児の源八は、40余名の元奧平家臣に助けられ、寛文12年に江戸に潜伏する隼人を討ち取った。これが江戸三代敵討ちの一つ、浄瑠璃寺坂の敵討ちである。この事件の根本は新藩主・昌能の拙劣な裁定にあると言わざるを得ない。 忠昌の死の直後にも、昌能は重大な過失を犯している。忠昌が重く用いていた杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と強い調子で嫌みを言ったのだ。杉浦は憤慨し、ただちに切腹した。殉死である。ところがこのとき、文治政策を進めていた幕府は、殉死の禁止令を出していた(寛文3年)。昌能の行動は幕府への挑戦と捉えられ、大問題になった。普通の大名なら取りつぶしを免れないところだったが、神君家康の血統であるということで、2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封で済んだ。かわいそうなのは杉浦の遺児で、幕府の法令に違反した者の子ということで、斬首になった。全くバカな殿様がいたものである。第十四回「いろいろと困った人物、 奧平昌能」1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム18たけだそううん【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/【公式サイト】 https://www.souun.net/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家武田 双雲経営コラム
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