所報10月号
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ののリリアアルル戦戦国国武武将将葉力ことばのちから上機嫌を保つことが、人生を豊かにする1番の近道だ。言の  今回は前回の池田輝政に嫁いだ督姫を取り上げる。徳川家康の次女であるが、生年に二つ説があり、永禄8(1565)年もしくは天正3(1575)年。永禄8年説の場合、末子の輝興を出産したとき47歳になる。当時の出産は現在にもまして命懸けで、督姫の健康を考えると、この高齢出産には無理があるように思う。一方で天正3年説を採ると、北条氏直と結婚したときの年齢は9歳、氏直と死別した17歳前後までに2女を産んだことになる。早過ぎる気がするが、例えば前田利家の妻のまつは11歳で利家と結婚し、翌年から次々と子を産んだ。一応、これを類例とし、天正3年説を採りたい。 督姫は関東の覇者、北条家の5代当主・氏直と結婚した。だが豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡し、夫の氏直もその後1年で流された高野山で亡くなった。督姫は家康の元に帰っていたが、文禄3(1594)年、20歳のとき、秀吉の肝いりで池田輝政に再嫁した。輝政との夫婦仲は良く、5男2女をもうけた。 夫の輝政は関ヶ原の戦いの後、徳川家康に厚く遇され、姫路城主となって料であった。彼女は父・家康から特にかわいがられていたのだろう。 池田輝政には督姫所生ではない、嫡男の利隆がいた。督姫が産んだ忠継は家康の孫、ということで、父とは別に岡山28万石を与えられた。輝政が没すると、督姫の化粧料は忠継に付され、彼は38万石の大大名となった。ただし彼は16歳で亡くなっている。 ここに伝説がある。督姫は実子の忠継を姫路城主にすべく、利隆の暗殺を企てた。岡山城中で利隆と忠継に対面した際、まんじゅうに毒を盛って利隆に食べさせようとした。だが女中が手のひらに「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかった。一方で母の所業を察知した忠継は毒入りまんじゅうを奪い取って食べ、死亡した、というのだ。史実として忠継は慶長20(1615)年2月23日に岡山城内で天然痘により死去し、督姫は同年2月4日に二条城で死去している。やはりこの話は伝説にすぎないようである。 結局、利隆の家は岡山で、忠継の家(同じく督姫を母とする弟の忠雄が継ぐ)は鳥取で、池田家はともに30万石ほどの大名として幕末まで続いている。第十七回「徳川家康にかわいがられた次女・督姫」52万石。このうち10万石は督姫の化粧【公式ホームページ】  https://www.souun.net/【公式ブログ「書の力」】 https://ameblo.jp/souun/1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの『ポジティブの教科書』のほか、著書は50冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、17年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、15年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、19年アートチューリッヒに出展、20年には、ドイツ、代官山ヒルサイドフォーラム、日本橋三越、大丸松坂屋(京都店・心斎橋店)、 GINZA SIX、伊勢丹新宿店にて、個展を開催し、盛況を博す。書道家東京大学史料編纂所教授本郷 和人ほんごう・かずと コラム18たけだそううん1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(建前、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作を発表している。従来の権門体制論を批判し、二つの王権論に立つ。師の五味文彦氏と同様に書評も多く、中世や近世を扱ったさまざまなドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わる。武田 双雲経営コラム

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