所報6月号
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5 徳川家康の母、於大の方が再婚した久松家は、松平姓を賜り、その孫定行が松山十五万石を与えられ、三代将軍家光から瀬戸内海の守護を期待されます。松山藩は伊予最大の領知高を有し、その藩領域は、伊予灘を望む現在の松山市域だけでなく、今治市北部と芸予諸島、燧灘に至る西条市の一部にも広がっています。 定行が松山へ、弟定房が今治へ配置された寛永十二年(一六三五)以前、瀬戸内地域に徳川一門はなく、その後、同十八年に松平忠明が姫路へ、同十九年に松平頼重が高松へ配されることによって、瀬戸内海両岸に家門大名が成立し、家光政権の安定をもたらしました。 このころ、寛永十年(一六三三)にはキリスト教禁止令・貿易制限令、同十五年に島原の乱、同十六年にポルトガル船来航禁止令が出され、いわゆる「鎖国」(海禁)制度が整備されるとともに、対外的危機が想定されました。 当時、イスパニア(スペイン)と世界の覇権を争っていたポルトガルが、正保四年(一六四七)に長崎へ来航したのです。これを予想した幕府は、事前に定行へ「長崎探題」を命じます。大坂城に蓄えてある武器を受け取り、九州の大名を率いて長崎を守る役目です。ポルトガル船来航にあたり、定行は七二〇〇人もの兵を率いて長崎へ出兵し、同じく出兵した黒田・鍋島・細川・小笠原ら九州大名と合わせて五万四五〇〇人もの兵を指揮します。ポルトガル船は帰国し、兵は無事解散しました。「長崎探題」職は、二代定頼へ引き継がれますが、定頼死後は他家の小笠原・大久保家へ移ります。 四代定直の時にも、対外的事件が記録されています。貞享二年(一六八五)長崎へ南蛮船が来航したと長崎町人平野屋から連絡があり、佃杢之丞を派遣します。佃は鉄砲十挺・弓五張・槍六筋などの武器と兵を率いていました。 享保三年(一七一八)には、小倉藩領へ中村勘兵衛と歩行目付宮原久大夫を派遣します。中国船が小倉沖に多数現れたためでした。小倉藩と萩藩の兵船が四〇〇艘も出て、鉄砲で追い払いました。中村も追い払いに同道しますが、猩々緋(ショウジョウヒ)の陣羽織を着て大筒を打ち、小倉藩主小笠原忠基に謁見し大盃を賜っています。 松山藩主は、元来「長崎探題」を命じられ、瀬戸内と九州を守る役目を担っていました。同職を離れてからも、長崎からの連絡手段を保ち、九州で異常がある時は出兵し、状況を幕府へ伝える役目を担っていたものと思われます。 この松山と九州との関係が、「タルト」という独特の菓子文化を松山へもたらし、今日に至っているのです。(愛媛大学法文学部教授・胡光)1660~1720(万治三~享保五年)当会議所では、「眠れる偉人を未来へつなぐ研究会」を設置し、偉人の発掘に取り組んでいます。今号では、研究会において、顕彰すべき偉人として選定された「松平定直公」の第二話をご紹介します。特集(写真)松平家御船印帳(久松常盤会蔵)松平定直公(2)松山と九州松山の偉人

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