所報7月号
17/24

森盲天外翁の想いをつなぐ老舗かつての日本は、肥料の価格や基準が定まっておらず、とくに小作農家に大きな負荷がかかっていた。肥料が公平に行きわたるよう明治期に施行された肥料取締法をきっかけに、余土村にて盲目ながら村長を務めていた森盲天外が企画した会社が伊予肥糧である。創業時に経営を担うこととなったのが、初代松太郎氏。松太郎氏はとても信心深く、常に周囲の人や物事に感謝の気持ちを持つ人物だったそうで、化学肥料が世の人々に知れ渡るよう尽力した。2代目の八十八氏は、周囲からの人望が厚く、戦後の焼け野原となった松山銀天街にて、「みんなでコーヒーでも飲みながら今後について話し合おう」と、廃材を集め喫茶店を開店。その後も、ゴルフ場や梅津寺の遊園地など、愛媛・松山の開発に携わった。3代目に就任した和久氏は、大手企業にて経理部門を担っていた経歴を持ち、経営を一から見直し、商品の管理を徹底するなど、堅実な経営で、より安定した肥料の開発・提供に努めた。現代表を務める祥弘氏は、農業に関する広い知見を持つ。悩んだ際には、創業のきっかけとなった森盲天外の人柄や行動を鑑としているそう。明治期から現代まで「世の人々の目線で」という思いで経営を続けてきた同社。農業の在り方が変化していく現代においても堅実な経営で、肥料の開発に努めていく。 県内屈指のシューズショップとして知られるつるや。創業者の鶴田福三郎氏は紙の原料である「みつまた」の仲買業を営んでいた際、下駄や草履の表に張る籐表を考案し、鶴田履物店を立ち上げた。その後、次男の環氏が後を継ぎ、事業を飛躍させる。戦後の日本では靴が流行していたため、環氏は、松山で初めて既成靴の販売を開始した。さらに、「靴のサイズ別陳列」や「正札販売」を発案。公平かつ公正な売値で販売し、多くの消費者から支持された。その後、環氏の長男学氏が社長に就任。ターゲット別のシューズショップを展開した。平成5年には(株)大創産業と業務提携し、県内各地に100円ショップダイソーを出店。地域のニーズに合わせた商品を販売するドミナント戦略を取り入れ業容を拡大した。 現在は、学氏の次男、直丈氏がかじ取りを担う。社長就任後、コロナ禍へ突入し、店頭での売り上げが激減したことから、ネット販売事業に注力。大手ECサイトへ参入し、コロナ禍で激減した売り上げを回復させた。直丈氏は、手に取りやすい価格で、様々な場面に合わせた靴をいくつか購入してもらえるような品揃えに努める。現在は海外雑貨やコスメを販売するPLAZAの関西進出を進めている。 創業当時から革新的なアイデアと、先を見据えていち早く行動を起こしてきた。お客様が必要としているものは何かを常に考え、事業を展開していく。創業創業明治36年創業ご縁を大切に、時代時代に合った生き方ができれば有り難いと思います。明治35年創業お客様に地域社会に喜んでいただける、必要とされ愛される店づくりを心がけ、人を重視して、一生懸命に優しい店を目指しています。事業所概要代表者:所在地:TEL:栗田 祥弘松山市千舟町7-7-3089-941-8001事業所概要代表者:所在地:TEL:鶴田 直丈松山市湊町3-8-12089-933-3111常に新しい視点でお客様に靴を提供メッセージ一つ一つのメッセージ15会員トピックス昭和10年ごろの店舗当会議所会員創業記念表彰を受賞された会員のみなさんをご紹介します。120周年120周年(株)つるや伊予肥糧(株)

元のページ  ../index.html#17

このブックを見る