所報4月号
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松山の文化を愛し移住した俳人 表紙絵の名所を巡り、歴史や、まちづくりについて考える本コラム。寺山のふもとに建つ一草庵です。 「分け入っても分け入っても青い山」という有名な句を詠んだ、自由律俳句における代表的な俳人、種田山頭火。全国を放浪した山頭火の終の住処が一草庵です。一草庵は、御幸寺が納屋として使用していた建物を改造したもので、大山澄太が名づけました。 山頭火は山口県に生まれました。門学校予科(現早稲田大学)へ入学しましたが、病のため中退し、父の酒造業を手伝います。しかし、35歳のときに、酒倉の酒が腐敗して破産し、37歳で弟が自殺します。また、第4回は、松山城の北にある、御幸しい人生を送る中で、自由律俳句を推薦する雑誌、「層雲」へ句を投ずるなどの活動に熱中しました。その後、熊本へ身を寄せましたが、そこで始めた商売がうまくいかず、仏門に入ったものの、一年足らずで旅に出ました。その後、全国に3つの庵を結庵しましたが、その一つが一草庵です。正岡子規をはじめ尊敬する俳人が多くいたことや、俳句を詠むのに適した土地柄であると思った山頭火は、松山を住処に選びました。最期は、句友らと句会を楽しんだ夜、いびきをかきながら寝ていましたが、そのまま亡くなりました。 「風の夜を来て餅くれて風の夜をまた」は、松山に温かく迎えられて過ごしたことを詠んだ句です。松山の風土と人柄が、山頭火の定住につながったのでしょう。令和に入り、人口減少時代が到来し、いかに松山に来る人を増やしていくかが課題になっている昨今。山頭火は、松山にある文化と、おもてなしの精神が、移住者を呼び込めることを伝えています。松山に多くの人を呼び込むためのまちづくりは、文化やおもてなしといったソフトを見直すことも大切であるようです。第4回19コラム11歳の時に、母は投身自殺。東京専瀬戸風峠から御幸寺山を望む40歳で父も亡くします。こうした厳「「一一草草庵庵」」

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