所報5月号
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 表紙絵の題材となった松山の名所を巡り、歴史や、まちづくりについて考える本コラム。今回は、味酒町にある、俳人の栗田樗堂が結んだ「庚申庵」です。 樗堂は、酒造業の後藤家に生まれ、その後、松山でも大きな造り酒屋である栗田家の養子となります。後藤家と栗田家は、松山藩主の加藤嘉明にも仕えたことがある家です。樗堂も大年寄役見習、大年寄、大年寄格として、53歳まで松山藩に仕えました。俳句に関しては、養父から俳諧を学びます。38歳の頃には、当時の全国諸芸の達人を示した書に「俳諧上々」と記されているほどになり、近世では伊予第一の俳人といわれています。小林一茶も二度、樗堂を訪ねています。 一畳は浮世の欲や二畳庵 樗堂は、先代が興した二畳庵と呼ばれる庵を再興していましたが、風雅の誠を求めたいという思いを強く持つようになり、52歳の時に「庚申庵」を結庵しました。近くにある「古庚申」と呼ばれた祠の名称や「えと」にちなんで名付けたとされています。樗堂は、庚申庵で風雅の生活を楽しんだ後、現在の広島県の御手洗島へ移住し、ここでも二畳庵をいとなみました。樗堂は松山を立つ際に、「三無益」という遺言を残しています。遺言には、「追悼の句集も、句碑も、派手な法要もいらない。湯豆腐を味わいながらささやかに追悼してほしい」という思いが綴られていました。このため、命日には、樗堂の好物であった湯豆腐を味わう「湯豆腐忌」という行事が行われています。 浮雲やなた降雪の少しつゝ 庚申庵の近くにある、阿沼美神社に建つ樗堂の句碑です。樗堂の句風は上品でやさしく美しく、おだやかで分かりやすいとされています。 現在の庚申庵は、樗堂が暮らしていた時の形に復元されており、藤の花をはじめとする植物と泉水を愛でることができます。庚申庵を訪れると、俳句と文学、自然豊かな環境、文化を愛する人柄が松山のまちづくりの礎になっていることが伝わります。伊予を代表する俳人が見た松山19コラム第5回「「庚庚申申庵庵史史跡跡庭庭園園」」 

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