所報9月号
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 表紙絵の題材となった松山の名所を巡り、歴史や、まちづくりについて考える本コラム。第9回は、道後温泉本館近くにある、「道後公園」です。 道後公園は、国史跡湯築城跡として、日本100名城、日本の歴史公園100選に選ばれています。古くは伊社爾波岡と呼ばれていたようです。飛鳥時代に聖徳太子が道後に来浴された時に碑を建てたのもこの地であるといわれています。また、湯築城とは、中世の伊予国で強い勢力を持っていた豪族・河野氏の居城でした。歴史を紐解くと、鎌倉にいた河野氏は、伊予国における武家方の勢力を樹立するため、本拠を道後に置き、建武年間(1331〜33)に城郭を築いて、湯築城と称しました。河野氏は湯築城に拠って伊予国守護職を留保し、あわせて道後は、政治・経済・軍事・文化の中心として発展しました。その後、戦国時代の末になると、豊臣秀吉による河野氏の討伐が断行されます。秀吉の指令によって派遣された小早川隆景が伊予国の大名に封ぜられ、湯築城を本拠としました。隆景は、2年で筑前国に移り、また、河野家は嗣子がおらず、断絶してしまいます。そして、湯築城は廃城となり、加藤嘉明が勝山に城郭を築いて、松山に城下町を移しました。湯築城跡は荒廃し、竹林が茂っていたといわれています。そして、明治18(1886)年に、愛媛県営の公園として整備されました。 戦後は、県立道後動物園が設けられるなど、市民の公園として親しまれました。その後、大規模な発掘調査が行われ、土器などの多種多様な遺物が出土したことから、平成の時代に入り、こうした遺構をもとに歴史公園として整備されました。今は、復元された建物が公園内に設置されています。 古からのまちづくりの歴史を有し、伊予国の中心でもあった道後公園。史跡も多く、歴史を体感できる場所となっています。この秋は道後公園に出かけて、道後と松山のまちを望んでみてはいかがでしょう。伊予国の中心として栄えた公園第9回19コラム「「道道後後公公園園」」

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