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写生を唱えた近代文学史上の巨人

正岡 子規正岡 子規
(1867〜1902)【俳人】

松山市花園町生まれ。写生の心で俳句と短歌の刷新を行い、伝統の文芸に新しい息吹を与えた。また、平明な日本語の散文を作り上げ、司馬遼太郎は「子規が大好きだ」と言ってはばからず、のびやかで屈託のない、透明な明るさを持つ人物ととらえていた。また「日露戦争までの明治、まだ見込みのあったころの日本人の象徴」と最大級の賛辞を送っている。35歳という短い人生だが、近代日本文学史上、偉大な業績を残した。門下からは虚子・碧梧桐をはじめ、句碑伊藤左千夫や長塚節など、すぐれた俳人・歌人を輩出した。晩年は寝たきりだったけれども、死に至るまで溌剌とした気力を失わず、超人的な仕事をなした。

写真はJR駅前にある句碑
「春や昔十五万石の城下哉」

 
ホトトギス王国を築いた俳句界の大御所

高浜 虚子高浜 虚子
(1874〜1959)【俳人】

松山市湊町生まれ、北条に育つ。幼い時は虚弱で運動が苦手、学校では優等生だった。河東碧梧桐の紹介で子規を知り、俳句を志し、俳誌『ホトトギス』を引き継いで子規の後を継承する。定型調で「花鳥風詠」をモットーとする古典主義を唱え、親友で新傾向を唱える碧梧桐と袂をわかつ。小説に夢中になった時期もあったが、非凡な経営力でホトトギス王国を築き、俳句界の大御所として終生君臨し続けた。堅実でバランス感覚があり、弟子の才能を引き出し育てる指導力にもすぐれていた。句碑『ホトトギス』からは水原秋桜子、山口誓子、中村草田男(松山出身)、中村汀女ら傑出した俳人が多く誕生した。

写真は東雲神社にある句碑
「遠山に日の当りたる枯野哉」

 
ひょいと松山にやってきた漂泊の俳人

種田 山頭火種田 山頭火
(1882〜1940)【俳人】

明治15年山口県で生まれた種田山頭火は、自由律の俳人として知られる。全国各地を放浪の果て、余命いくばくもないと知った昭和14年、ふらりと松山にやってきた。この地を終焉の地として選んだ理由を「伊予の国が風土も美しく人情もよかった。特に松山あたりは風土そのものが俳句だよ。どうせ死ぬのなら、伊予に渡るとしようか」と語っている。約1年間の暮らしは、道後温泉に通ったり、句会に参加したり、一草庵時には泥酔したり‥。周囲の人々との交流を通して、穏やかに死の準備をしていったと考えられる。終の住処・一草庵には「春風の鉢の子ひとつ」などの句碑がたつ。

写真は御幸寺山のふもとにある一草庵。 毎年、5月と11月には一草庵の内部が公開されます。

 
日本のグラフィックデザイナー第1号

杉浦 非水杉浦 非水
(1876〜1965)【グラフィックデザイナー】

わが国の「商業デザイン」を確立した人物。松山市松前町生まれ。松山中学卒業後、東京美術学校にすすみ、そこで黒田清輝に出会って、アール・ヌーボーを基調とした近代図案に目覚めた。三越呉服店のポスターや「光」「響」などのたばこのパッケージは有名。多摩美術大学を創立し、初代学長も務めた。「荒地を開拓して田園を提供したい。人はそこに種子をまいて、美しい花を咲かせるであろう。・・・自分の努力の代償はそれ以外にはなく、それで満足の全部である」との言葉がその生き方を物語る。物静かで、バランスのとれた人間性は多くの人に慕われた。

東雲神社にある句碑
「遠山に日の当たりたる枯野哉」

 
「先見の明」で道後温泉本館を造った名町長

伊佐庭 如矢伊佐庭 如矢
(1828〜1907)【町長】

道後生まれ。愛媛県の役人などを経て、明治23年62歳の時、道後湯之町の町長に請われた。町長となった彼は、本館の改築に城大工を棟梁にすえて三層楼の壮大な建物を計画するが、当時、地方では桁はずれの大プランに、身の危険があるほどの反対があった。「人の心をひくのは容物が大事ぞな。百年のちまで他所がまねできんようなものを作ってこそ、初めてそれが物を言うことになるんじゃなかろかなもし‥」。銅像こう説いて反対派を説得し、現在の本館を造った。頭脳明晰で人望のあった如矢の、百年先を見つめた先見の明が、今日の道後の繁栄を築いたといえる。

写真は道後温泉本館前にある銅像。 坊ちゃん団子の原形・湯ざらし団子を作ったのも彼である。

 
無私で洒脱なリベラリスト

加藤 拓川加藤 拓川
(1859〜1923)【外交官・政治家】

松山市歩行町生まれ。子規の叔父で、陸羯南に子規を引き合わせた人物。シベリア撤兵等に貢献した外交官で、衆議院議員等を務めたリベラルな政治家でもある。晩年、松山市長を務めた時には、陸軍省から城山公園を払い下げて市民に開放し、松山高等商業学校(現・松山大学)の創立にも尽力した。私心がなく、純で潔白な心根の持ち主。また、漢文や書をよくし、フランス文学を愛する洒脱な趣味人でもあった。墓司馬遼太郎作『ひとびとの跫音』の中心人物、正岡忠三郎(子規の死後、正岡家の養子になる)は拓川の三男で、この本では、淡泊で闊達、忠恕の人として拓川もしばしば登場する。

松山市拓川町の名は偉業をたたえるために彼の名から命名。 この町の相向寺に彼の墓があり、遺言で「拓川居士骨」とのみ印されている。

 
おおらかで風格ある”騎兵の父“

秋山 好古秋山 好古
(1859〜1930)【軍人・教育者】

松山市歩行町生まれ。藩校明教館に学ぶ。陸軍大学を経てフランスへ留学し、日本騎兵隊の創設者となる。日清・日露戦争で活躍し、陸軍大将、教育総監なども務めた。日露戦争では無敵といわれたコサック騎兵団を打ち破り、大戦を勝利に導く立役者となった。名利を求めず、晩年は故郷に帰って私立北予中学校(現・松山北高等学校)の校長として碑教育界に貢献した。清廉潔白、器量の大きな風格ある人物で、人情味豊かなエピソードは数えきれない。司馬遼太郎は、彼にはえもいわれぬ風韻(おもむき)があると讃えた。

写真は松山市歩行町にある秋山兄弟の生家跡の碑。 兄弟の略伝を記している。


松山にひとかたならぬ縁がある文豪

夏目 漱石夏目 漱石
(1867〜1916)【作家】

江戸っ子夏目漱石が松山中学の英語教師としてこの地にきたのは、明治28年4月、29歳の時だった。たった1年の滞在だったが、この間、子規が漱石の下宿・愚陀仏庵に転がり込む形で52日間同居した。子規との生活で、漱石は俳句に目覚め、創作に開眼する。「子規は漱石の産婆役」といわれるのはこのためだ。ロンドン留学から帰った漱石に小説をすすめたのは高浜虚子で、俳誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載し、一躍文壇の注目を集めた。翌年、松山時代の経験をもとにして愚陀仏庵小説『坊っちゃん』を発表、小説家として不動の地位を築いた。松山は道後温泉しか気に入らなかった漱石だが、松山との縁はひとかたならぬものがある。

写真は萬翠荘裏に復元されている愚陀仏庵。 愚陀仏庵が文豪。漱石のスタートだった。

 
才能豊かな自由律俳句の提唱者

河東 碧梧桐河東 碧梧桐
(1873〜1937)【俳人】

松山市千舟町生まれ。少年の頃から腕白なガキ大将で、松山中学で高浜虚子と知り合い、京都・仙台の同じ旧制高校に学んで同じ下宿に暮らすほど、親しくつきあった。俳句を子規に学び、虚子とともに子規門下の双璧といわれたが、子規没後、新傾向俳句に向かい、常に斬新な表現を求めて虚子と対立した。碧梧桐の俳句は、因習にとらわれず、自由な個性を求める人々の間に熱い衝撃を呼び覚ますことになる。句碑豊かな芸術的才能に恵まれて多芸多才、書家としても有名だった。純粋で生きるに不器用だったが、清廉潔白で、裏表のない人柄が愛された。

写真は市役所前の句碑
「さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ」

 
芸への情熱にあふれた熱血漢

井上 正夫井上 正夫
(1881〜1950)【俳優】

伊予郡砥部町生まれ。田舎まわりで修業を積んで上京。新派、新劇の舞台で活躍し、翻訳劇などもとりいれて演劇の改革を行った。また、井上演劇道場を作り、岡田嘉子ら多くの名優、北絛秀司らの脚本家を育てた。脚本を手がけた一人、山本有三との交友は終生続き、松山市駅前にある胸像の正面文字は有三の字。ちなみに碑の背面には「その生涯は高き芸への追求であり、その芸格は劇界の至宝であった」と刻まれている 。井上正夫記念館熱血漢で、円地文子の言葉を借りれば、“冬の日だまりのような温かさと芸への激しい情熱”を持つ男らしい俳優だった。

写真は真砂家砥部本店の敷地内にある井上正夫記念館。 彼は絵も達者で、ここには絵手紙も展示。

 
ヒューマニズムあふれる自由主義者

安倍 能成安倍 能成
(1883〜1966)【教育者・哲学者】

松山市大街道生まれ。幼い頃から神童と呼ばれ、東大哲学科、大学での教職、一高校長の道を歩む。昭和21年来日した米国教育使節団に、文部大臣として述べた「あなたがたは、戦争に負けた日本が、勝ったアメリカの言いなりになることを望まないと思う。日本の教育の改革に協力して欲しい」という内容の演説は有名。早々と大臣を辞めた後は学習院院長となり、終生その職を務めた。リベラルな哲学者だが、胸像彼自身はまず教育者であることを望み、すべての人に存在価値を見出して、それぞれの花を咲かせようと、誠実に歩んだ。”信念の人“で、彼を生涯の師と仰いだ人は多かった。

写真は松山東高校にある胸像。

 
非戦を訴えた憂国の軍人

水野 広徳水野 広徳
(1875〜1945)【軍人・作家】

松山市三津浜生まれ。日露戦争の日本海海戦に参戦し、その模様を『此一戦』に著して、当時のベストセラーになった。だが、第一次世界大戦後のヨーロッパを視察、戦争の悲惨さを直接見聞し、徹底した平和主義者にかわる。その後、野に下り、評論家として非戦・平和論を展開した。軍部からにらまれ、日米戦争論には真向から反撃したが、著書は発禁となり、記念碑新聞雑誌の寄稿も抑えられた。正宗寺の歌碑に刻まれている歌「世にこびず人におもねらず我はわが正しと思ふ道を進まむ」は、彼の生涯を貫いた信条だった。

写真は正宗寺にある彼の記念碑。

 
智謀湧くがごとき戦術の天才

秋山 真之秋山 真之
(1868〜1918)【軍人】

好古の弟で子規の親友。海軍兵学校を経て、米国へ留学。俊敏な頭脳と天才的な戦術で、日露戦争の時には、銅像連合艦隊司令長官・東郷平八郎の名参謀として海軍の作戦のすべてを任され、日本海海戦ではバルチック艦隊を撃破した。文章の才もあり「本日天気晴朗なれども浪高し」の電文で知られる。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで、腕白で愛すべき稚気を持つ真之の性格を見事に浮かび上がらせている。銅像日露戦争後は、シーメンス事件の後処理に奔走したり、近代中国建国の父・孫文の運動を支援したりする。大正6年に中将に進んだが翌年50歳で病没した。

写真は松山市梅津寺にある二人の銅像。 真之の銅像(右)には「知謀湧くが如し」(東郷平八郎献辞)が記されている。

 
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